石の上にも三年いれば暖まる

『石の上にも三年』の意味を間違えていた。

大学を卒業し自動車会社に入り駆動系設計に配属された。
『仕事を覚え慣れるのに、ある程度の時間がかかる。どんな仕事でも、一人前になるまで3年間我慢しろ。3年我慢できないようではダメ!』 先輩に言われた。 3年頑張った。駆動系担当部品の設計を一通り遂行し、一人前になったと思った

オイルショックのタイミングで自動車会社に入った

設計を担当したとしても、新人が関われる部分は少ない。
駆け出しの頃は、設計配属の新人全員で製図教育を受けて自分の製図板の上で復習をする繰り返しの日々。折からのオイルショックの影響で、毎日が定時退社。自動車業界は暗雲立ち込めていた。
高校時代から自動車会社を希望していたのに、大学3年の時に襲ってきたオイルショック。
ガソリンの配給制の話しが巷をにぎわしていた。自動車の売れ行きも停滞、ガソリンの値段はうなぎのぼり。中東から日本に輸送される石油の量が激減し、日本国内の備蓄量も日々減っていく。
おじさんが『自動車会社の先行きが分からないから、農機具メーカを紹介してやる!』
と家に乗りこんできた。正直、ありがた迷惑であったが、素直な甥っ子だったら、おじさんの言うことを聞いて、長野県でトラクターの設計技師をしていたかも。
しかし、初心貫徹!世間はどうあれ、希望どおり自動車会社に入った。

初めて量産設計した部品が付けられた自動車を購入した

日々の製図鍛錬の末、量産設計の一部分を任されるようになった。

当時は、日本国内の自動車会社第3位の地位を争っていた。
トラックを除き、FR2WD乗用車と軽自動車しか開発していなかった。
当方は、FR乗用車駆動系担当下の見習いポジション。
ある日、上司から新型車のリヤアクスルハウジングに溶接する小さなブレーキホース用ブラケットの設計を任された。
『嬉しかった。』

自分で初めて設計した部品が付いたきねんすべき自動車

初めて設計した部品が付いた記念すべき自動車

必死に計画図を引き図面化した。厚紙で模型を作り、試作課に出向き、アクスルハウジングの表面に当てた。
問題の無い設計部品であることも確認した。設計図面は、上司の検図も通過し生産図登録され、生産準備段階へと移行した。
時は経ち、新型車が量産され、市販化された。
初設計の小さな小さな部品も付いている記念すべき第一号の市販自動車である。
その車を購入した。
嬉しくて、父親に見せて、地面にひれ伏して、部品を指さし、説明したのを昨日のように思い出す。
『初めての作品は、いつまでも忘れられないものだ。たとえ、小さな小さな部品だったとしても…』

自分は誰のために何のために役に立っているのか?

『駆動系設計を拝命したのは、会社都合。自分が希望した訳ではなかった。これからも、駆動系設計の使命のままで良いのか?』
正直、迷っていた。
『何を希望して自動車会社に入ったのだろうか?』『ラリー車の仕事ができたらいいな~。』
『実験部で試験車を走らせて開発するのが希望ではないのか?』
その時、頭の中で光玉が光った。

コペン 再度、自動車工学の勉強をさせてもらった愛車

光玉の声
『3年間、駆動系部品の設計を経験してきた。自動車にとって駆動系部品は、どれほど必要な存在なのか?それとも、2万点の部品の中のちっぽけな存在なのか? 調べてみたら?』

『そうだよな。自分が3年間取り組んできた駆動系の歴史を調べてみて、今後の方向を決めよう。』

そして、駆動系の歴史と共に自動車の歴史も紐解くことにした。