仕事初めのルーチン
正月明け。仕事始めの日。設計室に入って、真っ先にすることは、自分の机に荷物を置くよりも前にFAX機へ行き、受信している用紙に目を通す。現地から送られてきているパリダカラリーの情報を紙の上のインクから確認する。
まず、探す文章は…
『〇号車の駆動系部品にトラブル発生!』

ミニカーコレクションパジェロラリー車群
パリダカラリーへのいざない
前年度、フランスディーラーがプライベート出場し、無改造クラス優勝(総合11位)であった。
ディーラーは、欧州での車両拡販宣伝効果に寄与するので、バックアップして欲しいと来日。
本社も全面バックアップを約束、技術センターのラリーチームへ支援要請指示を発令した。
当時、WRCラリー車の駆動系支援者として活動していた。ベースの量産SUV車両は、当方担当ではなかったが、パリダカラリー車についても担当となった。
正直、量産車用部品の開発設計よりもラリー車の部品開発は、面白い仕事であった。ラリーの何かに関わりたくて、この会社を選んだのも理由の一つだったので、水を得た魚のように生き生きと動いていたと周囲からは見られていたに違いなかった。
たとえ、量産部品をラリー用に小改造するとか、機能向上させるアイデアをラリーチームに提案し競技車に盛り込むとか、小っちゃな創造成果であっても、とても楽しかった。量産部品だけの開発設計を担当していたら、3年で飽きていただろう。事実、入社から3年目で駆動系設計を生業とすることに疑問を感じていた。
WRCラリーに関係しだしたのは、入社3年目と1ヶ月目であったのは幸いであった。
1984年 第6回
さて、メーカとして初めてパリダカールラリーへ参加することになった1984年の記憶を書き留めよう。
エンジンは、2.6L+T/C 市販車クラスなので、出力アップしたとしても、量産車の駆動系部品のまま、補強することなく対応できると判断。量産車と同じパートタイム4WDのまま。
あまり、準備に苦労した記憶はなかった。
そうは言っても、ラリー車へのダメージは、並大抵ではない。大学時代に、ラリーチームのサポートに同行したときの経験。JAF国内ナイトラリーであったが、夜間サービスに戻ってきたラリー車の左フロントタイヤが ホイールハウスのドア側に干渉していた。ストラットが曲がった?応急で、タイヤ部分を牽引してタイヤの前後位置をそれっぽく治し、乗鞍登りへ送り出した。
さて、パリダカラリーでは、砂漠を疾走すると 車体の上下・前後・左右Gは、量産車の試験で計測されるレベルを凌駕する。
ラリーチームの先輩から、『どんなモータースポーツでも、新参者には、越えなければならない試練がある。先駆者は、その壁をすでに超えているので完走率が高く、上位にも優勝にも近づける。新参者は、如何に早く、その壁を経験し、超えるかが大切である!』
その壁で記憶があるのが、『毎日、キャンプに到着すると、ラジエターのボディー側取付部分が破断(共振疲労破壊)していて、毎晩、溶接補修を繰り返していた』というお話し。先駆者のラリー車は、どうなのか?という目で相手サービスを偵察すると、アルミラジエターであった!翌年は改善し毎晩の補修は無くなったとのこと。『まさに、重さで解決。共振だね!』 まさしく、コロンブスの卵である。
★『問題意識を持って、不具合箇所を見ると、いままで見えてこなかったことが見える』 教訓である! 当方は、何か不具合が起きると、『問題意識を持つ』ことを重視して解決策を探していたが、今となっては懐かしい思い出である。


ラリーストの兄とランサーGSR SOLEX TWIN キャブと側面にGTOストライプを貼っていて格好良かった
大学時代、サンデーラリーに出場。当時は、未舗装路が多く、近場でも楽しめた。